シニフィアンとシニフィエ
バラエティ番組での言語の乱れに文句を言っている落語家さんのツイートを見た。
気持ちは分かるのだけれど、言語、特に喋り言葉は使われているうちに変化するものだし、落語家さんが正しいとする言語だってある時代のある地域で使われていた言語にすぎない(それだってゆれはあったはずだし、そのまま伝わっているとは限らない)わけで。
シニフィアンとシニフィエの関係性は恣意的である、っていうのを思い出した。
言葉とそれが指す実体はなんとなく結び付けられている、というようなことなんだけど、言葉っていうのはそれくらい流動的なんだろう。
落語家さんだし、自分の世界の中で自分が正しいと考えるあり方を守るのは大事だけど、バラエティ番組のことをけなすのは何にも意味がない。
余計なお世話というやつだ。
昔使われていた言葉が正しかったというなら、江戸時代より縄文時代使われていた言語が(もしあればだが)そっちのほうが正しいはずで。
その比較、意味ないよね。